「問われてくる教師の哲学」

―行動をはじめた子供たちに―

野口芳宏先生 講演

函館湯の川プリンスホテル渚亭

平成13年1月14日(日曜日)                   1340分開始

 

1.歓迎の挨拶

 

 みなさん明けましておめでとうございます。それぞれ貴重なお時間で、ご用件がおありだったでしょうけれど、ようこそたくさんの方おいでくださいました。ありがとうございます。私は函館に5年間お世話になりましたが、間もなく千葉に帰らなければいけませんので、一回一回の出合いがとても大事な時間になってくるような気がしています。

 今日の函館は零下7度だそうです。ラジオでそんな放送をしていましたが、函館はいいですね。私は4日ほど前まで釧路に5日間いたのですが、釧路の冬は「雪」ではないですね。「氷」の街ですよ。二度すってんころりとやりました。あまり普段転ばないものですから、転んだ途端、左の手でグッと体を支えました。二度とも左の手で支えたので今もちょっと痛いです。いやあ氷よりも雪のほうがずっといいですね。釧路ではスキーは誰もできないそうで、みんなスケートだそうです。所変わればそんなにも変わるものだなあと思いました。

 

2.「管理」ということの大切さ

 

 さて、私に与えられた時間は2時50分までです。あとの20分は、私が申し上げたことについて色々とご批判をいただいたり、誤解されかねないことについて確かめたりして、誤解をお互いに持ったままで別れたりしないようにしたいと思います。どうぞ批判的にお聞きいただきたいと思っています。

 どうも最近青少年をめぐる色んな生臭い事件が起こっていますね。一つ一つを挙げると本当に辛くなりますが、高松市の「成人式で若者が市長の祝辞を妨害して逮捕された」という事件。妨害したというのは大変苦々しい事ですが、逮捕されたということに関して私は大変スッキリしています。これで世の中の掟というものをきちんと狼藉者に教えることができる。今まではああいう者が出ると、大体は行政の責任者は「まあまあ、彼らも成長の途上ですから」なんて言って、穏便に済ませてきました。そういうことが多くの甘やかしを生んできたと私は思っていますので「逮捕された」ということを聞いて「やあ、この市長さんはなかなかやるなあ」と思いました。またそうでなくてはならないと思います。

 去年は一年間、17歳事件が世の中の耳目を集めました。また最近は仙台の「準看護士の筋弛緩剤投与事件」。まことにどうも…何を考えているのかと思いますね。だんだん色々なことがわかってくると、病院の「管理」ということも大変杜撰だったという問題にもなってきていますね。

 ところが学校という教育の世界では「管理」ということが目の敵にされています。「管理教育はダメだ」と言われる。「なるべく子どもの自由にさせるのがいいんだ」と言っている。もし「もっと管理を徹底させよう」などと校長が発言しようものなら、大変な反論をうける。今はそういう時代です。

 本当は「管理」ほど大切なことはありません。例えば「健康管理」です。自分の健康をきちっと管理するということは非常に大事なことですね。それによって自分が良好な健康を保ち、活動ができるわけですから。

 「管理」というものはとても大事なことなのに、それを目の敵にするという風潮が増えてきている。これはやっぱりおかしいことだと思います。

 

3.価値観混乱の時代

 

 去年の9月の産経新聞の記事ですが「親に戸惑う教師たち」という見出しのものがありました。ご紹介します。「子どもの話を聞いたお父さんが怒って担任の先生の家にダンプで突っ込んでやる」というものです。物騒な話で、担任の先生も大変でしょうなあ。もちろん実行はされませんでしたが。一体何の話なのか。

 「東京都内の小学校の保健室で、1年生の母親が養護教諭を相手に物騒な話を始めた。事の起こりは数日前、休み時間に1年生の男の子が『タダシがさあ』と、父親を呼び捨てにしながら話していた。そこで担任の先生が、『人前ではお父さんと呼びましょうね。』と教えた。すると父親は『ウチでは親子は対等の立場だから、お互い名前で呼び合うことにしている。』『担任の先生は家庭の方針に理解をしてくれなかった。』こう言って担任の先生への批判が続いた。」こういう出来事です。

 みなさんこれを、どう思いますか?実はこれを取り上げて、札幌の小学校で4年生の子どもたちに道徳の授業をしました。

「どうだい、この親が言うことと担任の先生が言うことでは、どちらが正しいかね。『担任が正しい』という人はノートに○を、『いや、親が正しい』という人は×をつけてください。」と言って作業をさせました。どんな結果が出たと思いますか?実に4割の子どもたちが「親が正しい」と言いました。その理由は「家庭のことに担任の先生は口出しすべきではない」ということです。一応の理屈は通っています。

 「子どもと同じレベルで感情的になったり、子どもの前で教師の悪口を言ったりする母親が目に付くと、その養護教諭は話していた。」と書かれています。

 もう一つの記事があります。「ある小学校で盗難が相次いだ。A君は加害者だった。同級生のゲーム機を校庭に埋めた。ところが埋めたゲーム機を取りに行ったところ、誰かが持ち去っていてもうなかった。そこでその母親は、『うちの子は隠しただけでそれを土の中から持っていったのは他の子だ。』『盗ってはいないのだから、弁償する必要なんかない。』と言い張った。」のだそうです。今度はこの母親が別の立場に立たされました。

「数ヵ月後今度はA君のゲーム機がなくなった。上級生の仕業とわかったときは、この母親は強硬な態度に出て、新品を弁償させたのだった。」とこういうことです。こういうお母さんは頼もしいとも言えますなぁ。けれども、どういうものでしょうかねえ。

「子どもの言い分をそのまま鵜呑みにしたり、筋が通らない態度をとる親が子どもに良い影響を与えるはずがないのに…。と振り返る。」とも書かれています。

 また、幼稚園の先生のお話ですが「半数の子どもが入園時に自分でトイレに行けない」「七夕に短冊を書かせると幼稚園児が『かねがほしい』と書く」というようなことが書かれています。

 青年から少年、そして親と、色々に価値観が変わってきていますが、これを「価値観の多様化」という人がいます。「一律の価値観で律することができなくなった。様々な見方が生まれてきた」とこういうわけです。しかし私は「多様化」という言葉で言ってしまうことには大きな問題があると思います。これは「価値観の混乱」と言うべきであります。

 

4.価値観の標準化が必要だ

 

 価値観が混乱してきますと、お互いに考える立脚点が違うものですから、様々なトラブルを生じてきます。私は「価値観の多様化」から今や「価値観の標準化」に路線を変えていかないと、教育はとんでもないことになるという気がしています。「一つの価値を押し付けてはいけない」と言う人がいますが当分の間、あえて「一つの価値を押し付け」てみてはどうでしょうか。

 これはいろいろなところで私が話していることなのですが、臨時教育審議会が10年ほど前に新しい提言をしました。そこで言われた大きな提言は「教育の自由化と個性の尊重」という二つでした。この二つはその後、大きく社会をリードする主張となって先生方の間に定着していったと私は見ています。

 東京都国立市で「卒業式には日の丸を掲揚し、君が代を歌うように」という都の教育委員会の指導を受けて、校長先生がそのように卒業式を企画したところ、職員がみんなで反対してああでもない、こうでもないと言って実に深夜の12時、1時まで討論をしたそうです。とうとう校長先生が折れて「日の丸を屋上に掲揚する」ということで式をおこなった。ところがその後、卒業生とそれを取り巻く担任が校長先生をつるしあげ、土下座をさせて謝らせた、という大変象徴的な事件がありました。「校長先生の見識、判断力」に対して小学校6年生が「けしからん」といって、校長先生が土下座して子どもに謝ると、こういうことでした。私はこれらは「価値観の混乱」という一言でくくるべきだと思います。

 

5.混乱の責任は学校教育にある

 

 さて、子ども、青年、親の問題など、様々な問題が噴出してきていますが、その責任は一体どこに、だれにあるのか?教師である私は「すべて学校にその責任がある」という立場を宣言しています。「親が変わってきた、親が狂ってきた」といいますが、親もかつては子どもであります。純真な子どもの時代があったわけです。生涯に通じるしっかりした教育を学校がしなかったことによって、結局は自分の人生を自信を持って堂々と生きる力を与えられなかったのです。

 教育のプロは学校であります。「すべての責任を学校に押し付けるなんてそれは無理だ」というお考えも無論おありでしょうが、私は教師でありますからそう言うのです。私がこれを言ったときに、親の立場から同調して「そうよそうよ、センセがみんな悪いのよ」と言われれば、私は必ずしも賛成できません。親は親として親の責任だと考え、教師は教師として私たちの責任だと考えるところに解決の糸口があると思います。教師が家庭の悪口を言い、家庭が学校の悪口をいい、ある人は政治家の悪口を言うというのでは何も解決しないと私は考えています。

 

6.教育公務員の研修権

 

 それでは、そのような学校による教育の混乱はどこから生まれてきたのかといいますと、この講演の表題にもありますが「問われてくる教師の哲学」ここに帰するのではないかというのが私の仮説であります。

 例えば「かけざん九九を、どの子にもわかりやすく教える技術、漢字書き取りをたくさん正確に覚えさせる先生の教え方の技術」こういったことについては長い時間をかけて、先生方は一生懸命勉強をしてきました。そして、教え方の上手な先生がある時期よりもずっと増えてきたと私は考えています。

 私たちは一般の公務員とは区別して「教育公務員」と呼ばれています。教育公務員は「教育公務員特例法」という法律で、政治活動が禁止されていたり研修権が認められたりしています。

 一般の行政にかかわっていらっしゃる方にも、いろいろな講習はありますし、事務能率を上げるための勉強会はあるでしょう。私たち教師の場合には、職場を離れ、場合によっては出張旅費までもらって、自由に自分の職務能力を高める勉強をすることができる「研修権」が与えられています。これは大変貴重な教育公務員の身分的財産であります。

 

7.偏った研修権の活用

 

 この「研修」という言葉はもともと中国語ではありません。日本語です。条文を開いてみますと「教員はその職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」と書いてあります。

 それなのに、先生方は何をやっているのかというと、専ら「研究」の方だけをやっている。この方が先生方には格好がいいのであります。だから「国語の研究」とか「道徳の研究」など、そういう先生方の研究会はかなり盛んであります。その成果がある形をもったときに、その成果を公開し、広く裨益していこうということで公開研究会という機会がたくさんもたれます。

 校内研究会、公開研究会、文部省指定研究会、教育委員会指定研究会と研究会の方はたくさんありますが、「修養会」というものがもうけられたことはありません。「今日は公開修養会です。」なんていうことは全く聞いたことがありません。

一言で言いますと「研究」というのは教え方、つまり「技術」の研究です。それに対して「修養」というのは、「自分の生き方」の問題です。教育者としてどう生きるか、教育とは何か、教師とは何なのかということを考えるのが「生き方」です。これはその人間のもっている「哲学」だということができます。

 戦後50年余り、日本の教師は教え方の技術を「研究」と称して日本中で盛んにおこなってきました。しかし修養の大切さに目を向けて、そこが大事だと考えてきた人は実に寥寥たるものです。殆どいないと言ってもいいでしょう。

 今日は幸い学校の先生もたくさんおいでくださっていますが、普通こういう所に来る学校の先生は殆どいません。一般の社会人、親御さんはこういう所で勉強しますけれども、先生方は「教え方の勉強会ならば行くけれど自分の生き方なんてことなら間に合ってるわよ」とこういう考え方です。その50年間の付けが今、噴出し始めているのではないかというのが先程申し上げた私の仮説であります。

 本日は、「問われてくる教師の哲学」という表題をつけました。今までは子どもたちが先生に問いかけることはなく、遠慮していました。しかしこの頃の子どもは問いかけ始めました。

 例えば、愛知県の主婦殺害事件です。犯人のあの高校生は「虫を殺すのも、動物を殺すのも、人間を殺すのもみんな命は一つしかないのだから同じではないか。なぜ人間を殺すのはいけないことなのか?」と問いかけています。そんな質問をする子は今まではいなかったのです。そうして子どもがまともに問いかけてきたときに「それはこういう理由だ」と胸を張って答えられる教師がどれくらいいるでしょうか。われわれ教師は長い間、研究ばかりに思いを注ぎ、「修養」という非常に大事なことに目をつぶってきたのではないでしょうか。

 

.「修養」の重要性と意義

 

 さらに、研究と修養では大違いなことがあります。前者は、「他人をどうするか」ということであります。後者は、「自分をどうするか」ということであります。多くの教師は自分を変える必要はないと思っています。変えなくちゃいけないのは子どもの方だと思っています。だから教師が子どもに向けて言う言葉というのは常に理想的です。「努力が大事だ。」「努力をすればできないことはないのよ。」なんて言うけれど、言っている本人はどれほど努力しているのでしょうか。「読書は心の糧という。本を読むということは自分の心を耕すことですよ。だからこの秋のいい時期にみんな本を読みましょうね。少なくとも月に2冊くらいは読まなくちゃいけませんよ。」と、先生は子どもに話します。しかし、子どもが手を挙げて、「先生、今年になってどんな本を読みましたか?」と質問すると、「ばかなこと聞くんじゃない。そんなことはどうでもいい。あんたがたのことを言っているんだ。」とこうなりがちです。こういうことが長く続くと子どもは教師を信用しなくなる。「ははあ、うまいことを言っているだけなんだなあ。自分にできもしないことをぼくらに言っている。」それを見抜いたときから、子どもは教師の言葉に耳を傾けることをしなくなるでしょう。

 

.教育が成立する二つの条件

 

教育というものはどんな時に成立するのでしょうか。これは二つしかありません。「信頼」と「尊敬」があるときのみです。軽蔑と不信の中から教育が成立するはずはありません。「あんなばかの言うことなんか誰が聞くものか。」となるのは当然です。「あの人が言うことなんて本気にできるものか。」こう思うのも当然です。信頼と尊敬を得るためには、教える教師自身が自分の人生に対して誠実でなければならないでしょう。できないことは「できない」と言わなければなりません。

例えば夏休みの前に先生は「いいかい、夏休みは学校に来なくてもいいのだから、生活が不規則になりがちだよ。だから、できるだけきちんとした時間に起きて、一日の生活の予定を立てて、それに従って暮らしていくのがいいんだよ。」などと話します。このままではいけない。その後で「まあしかしね、そんな立派なことを言っても先生だってこれまでちゃんと暮らせたかなあ。振り返るとまことに恥ずかしい。先生でさえ夏休みに規則正しい生活を送るのは難しいことなんだ。だからみんなができるなんてことは必ずしも期待しないよ。」そういう正直な言葉を教師が一言でも発したとき、子どもは「ああ、この先生は本当のことを言っている。」と、了解して素直に耳を傾けるのではないかと思います。

 

10.教育の本質は感化

 

では教師はこれからどういう修養をしていけばよいのでしょうか。どういう生き方を求めていけばよいのでしょうか。実は、「研究」には「修養」が滲み出てこそ成立するものです。これらを別々にしては成り立ちません。修養が滲み出て子どもを変えることを「感化」といいます。「あの人から非常に大きな感化を受けた。」というように申します。

私もたくさんの先輩に出合って大きな人生の感化を受けました。私は今こうして皆さんの前でお話をさせて戴いていますが、自分の来し方を振り返ってみますと、どれ程たくさんの先達から感化を受けてきたか知れません。

私が最も大きな感化を受けたのは平田篤資(とくすけ)先生という内科のお医者さんであります。この先生と出合って、私は自分の人生をがらりと変えられるくらい大きな感化を受けました。あるとき平田先生が病気でお倒れになりました。私はすぐにお見舞いに駆けつけました。先生はご自宅で臥せっていらっしゃいました。私が「先生、いかがですか。」とお見舞いを申し上げたところ、最初に先生はこうおっしゃいました。「いやあ申し訳ない。人の健康を預かる医者という身にありながら、自分の健康管理もできなかった。まことに恥ずかしい。申し訳ない。」―と。

私はその先生の謙虚さ、そのような言葉がパッと出てくることに深い感銘を覚えました。「ああやっぱりこの先生はきちんとご自分の仕事を自覚なさって、普段から暮らしておいでなのだなあ。」と思いました。

感化というのはその人間の生き方、その人間の哲学を抜きにしては成立のしようがないと私は考えています。

教師の一人ひとりが「おれはこういう生き方をしているぞ」ということを子どもの前で説得力を持って語れるとき、子どもは必ず感化を受けるでしょう。ところが、生き方を語れる先生、哲学を語れる先生というのは非常に少ないと私は思っています。「生き方」というのは結局は人生観の問題であります。「人生をどう見るか」ということであります。

 

11.幸福とモノ・カネ

 

さて、人生の目的とは一体何でしょうか。私たちは日々生きています。人生を一日一日刻んでいますが、「人生とは何か」とか、「人生の目的とは何か」と問いかけてみると、そう簡単には答えが出てきません。

私は私なりに本気で考えてみまして、人生の目的は二つあるということに今のところ辿り着いています。もっと時間が経てばまた変わってくるかもしれません。ひとつは「幸福の実現」ということであります。幸福な人生を送れれば人生は合格ですね。不幸な人生を送りたいと思っている人はいません。幸福な人生を送りたいとみんな考えています。

では、「幸福とは何でしょうか?」この「幸福観」が戦後はモノ・カネというところに向けられたことは皆さんご承知の通りです。「モノで栄えて心で滅びる」といった人がいますが、まことにうまい言葉だと思います。昨日私は東京に泊まりました。蒲田という東京で言えば場末の町です。そこに「閉店セール」というのぼりを立てている店が4軒もありました。なんと商品は半額から8割引だそうでありますが殆どの人は買いません。もういらないのですね。私も腕に時計をしていますが「安いからもう4つばかり買おう。」なんていう気にはなりません。ひとつあれば充分です。「おおズボンが安いから2本穿くか。」などとはなりません。

モノ・カネが人間の幸福を保障するという神話は、貧しい時代には説得力がありました。テレビがないときには「テレビが欲しいなあ。」と思います。電気洗濯機がないときには「電気洗濯機を買いたいなあ。」と思いますが、現在日本の標準的な家庭ではすべてが整えられました。実に「9割近くが中流意識を持つ」と日本の国民意識を分析した結果が出たことがあります。

「モノ・カネが幸福を実現するというのはどうも怪しかった」と、知性的な人は気付き始めています。しかしそうでない人は相変わらずモノ・カネを求めています。新聞紙上を賑わす強盗、殺人、様々な事件を見ますと、大方は「遊ぶ金欲しさ」と書いています。人生の価値、人生の本当の面白さということには気付かないで「カネさえあれば幸せになれるのだ」と今でも考えている愚かな者が様々な事件を起こすのであります。

昨日の読売新聞の夕刊に「都内の留置所満杯」という記事が載っていました。犯罪が年々増えて留置所がぎゅうぎゅう詰めだそうで、一人に一畳の場所を確保するのがやっとだそうです。「このため警視庁では、署の改築工事に合わせて留置所を増築していく方針だ。」ということであります。

国民の9割が中流意識を持つ豊かな日本です。人類が長い間夢に見て、今到達したその頂点で「留置所の増築」とは、実に皮肉な話でありました。