第109回全国大学国語教育学会での学び
国語科は「言語の教育」に徹すべき
岩見沢市立美園小学校 柳谷直明
29日,学習発表会終了後、思い荷物を抱えて駅へ向かった。あまりにも重くて,途中で歩くのを断念してタクシーに載った。そのまま千歳空港へ向う。岩見沢駅から2時間くらいかかる。
久し振りに明るい時間に飛行機に乗る。いつもは夜である。飛行機の出発時間が遅れた。帰りの飛行機の出発時間も遅れた。全日空はよく遅れるのか。(そのかわり帰りは1時間半くらいで着いた。)2時間くらいで中部国際空港に着いた。名鉄で岐阜へ8時頃着く。12時半に勤務稿を出てから7時間以上かかった。9時に打合せなので,その前に風呂へ入る。
9時少し前に打ち合わせ場所へ行く。すでに皆さんいらっしゃっていた。そこで広島大学の難波博孝先生,河合塾の成田秀夫先生,東京海洋大学の大島弥生先生と初めてお会いした。私の帰りの方法まで,すぐに調べてくださるような優しい方々だった。
打ち合わせは短時間で終了した。その後一人で食事をした。安い定食屋だった。このような店は北海道には少なくなった,安い食堂風の店がいくつかあった。建物も新しい物と古い物が混在していた。北海道は古い建物が少ない。すぐに新しい物に変えてしまう。古い建物が残っている街が羨ましい。
翌日バスに載った。バスも古かった。北海道ではこんな古いバスは使っていない。ここには見栄を張らない文化がある。北海道では古いものをすぐに使わなくなる。見栄を張る文化だ。古いものも大切にしたい。
バスのアナウンスが面白かった。「岐阜大学の学長です。学生の諸君はお年寄,体の不自由な方に席を譲ってください。」現代社会では学生のモラルをこのような形で指導しなくてはいけないのだろう。
午前中は自由発表を聴いていた。3回ほど質問した。地域文集を丹念に調べた研究,生活綴り方の研究などである。わたしの定型指導に対してこう言われた。
「文章構成法だけを指導すれば作文が書けるなどと(作文指導は)簡単なものではない。」
文章構成としての定型だけを指導すると作文が書けるなどと私は言ってはいない。定型と技術を指導する必要があると言っている。私が紹介した本すら見ようとされなかった。
この学会で発表する価値が私には感じられなかった。だから今回も難波先生のお誘いが無ければ学会へ行ってはいない。今回の出席が無ければ,今後も出席していなかっただろう。学会発表より原稿を書いている方が楽しいからである。すでに次の出版企画もある。教材を書き,それが多くの方に使われる。こんな有難い仕事はない。だから学会発表への関心など無かった。しかし今回の出席で,それだけではいけないと実感した。国語科教育改革論者の私は現行の国語科教育を批判しなくてはいけない。それは現在の教員養成系大学の国語科の教官を批判しなくてはいけないということである。是非,次回は発表しようという気になった。
例えばこんなのでどうだろうか。「定型指導により誰でも書ける効果的な作文授業〜意味沢市立美園小学校1年2組の児童全員の向上的変容の記録〜」
「話すこと・聞くこと」や「読むこと」よりも「書くこと」に一番関心がある。なぜかはわからない。文章を書くことが好きだからか。大学の国語科教育を改革していくためには現場出実践している我々が進んで発表していかなくてはいけないだろう。
午後は難波先生のラウンドテーブルで話題を提供した。『〈学習用語のカテゴリー化〉で〈国語学力〉を育てる』である。「国語力」がテーマだった。したがって国語学力としての学習用語の明示の必要性を主張した。河合塾の成田秀夫先生,東京海洋大学の大島弥生先生と一緒に話題を提供した。
成田先生は国語科がいかに勉強しづらい教科かということをデータで示され,その対策として「スキル,知識,プロトコル」を示された。大島先生は東京海洋大学の先生方で書かれた『ピアで学ぶ大学生の日本語表現――プロセス重視のレポート作成――』(ひつじ書房,2005年3月)の実践を御紹介された。
いずれも具体的に国語での学力を示された提案だった。大島先生の書を帰りに頂戴した。これは使える本である。課題設定から口頭発表までの技術が書かれている。話題例として使われているのが5年生の社会科で学ばせたいようなことである。この本は多くの方に授業で使ってもらいたい。小学生でも高学年なら部分的に使える。中学生ならこのまま使えるだろう。
成田先生が大学入試の授業内容として紹介されたのが次のようなことである。「言葉を知る。話題の説明。指示語の働き。接続語の働き。段落を読みつなぐ。全体をとらえる(要約)。論理(因果関係,対,偶,逆)」などだった。(一部書ききれなかった。)「指示語,接続語」は小学校中学年での指導事項である。それを大学入試でも学ぶ。つまり文章の質や量が変わるが,骨格として教える言葉はあまり変わらないと言うことだ。
フロアーの方々から貴重な御質問,御意見を頂戴した。きちんと質問に正対して答えられなかった。なぜならテーマの「国語力」に関わった話し合いにしたかったからである。授業方法としての対話や学びの深化は,ここではどうでもよい話だからである。
フロアーの先生方との対話で私が気づいたことは授業内容観の違いである。国語科の授業内容は何か。言語だろう。国語学力を指す言語である。子供が自分で考える課題ではない。子供が自分で考える課題,学びは国語科の発展的な学習である。私は生活科では問いをたくさん作らせる。それから一つ調査する課題を決めさせる。そして調査活動をさせる。
これらは総合的な学習でも高学年で指導していた社会科でも行ってきた授業方法である。この授業方法をなぜ国語科で行う必要があるのか。わざわざ国語科で扱う授業方法ではない。
こう書くと大村はま先生の単元学習を批判しているように受け取られるかもしれない。そう受け取られてもかまわないが,私は大村はま先生の実践に傾倒していた時期もある。野口芳宏先生も御講演の中で大村はま先生の言葉を引用することがある。もちろん賛成の立場でである。大村はま先生を更に学ぶ必要があるとも思っている。
大村はま先生は仰る。(大村はま著『大村はま国語教室』筑摩書房,1991年7月,8ページ)
「私は自分のしていることが単元学習であってもなくてもよいと思っていた。強いて名づけて言わなければならないときは『効果的な学習』と言っていた。」
私が目指しているところも「効果的な学習」である。「効果的な学習」のために国語科の授業では言語(学習用語)を教える必要があるというのが私の主張である。言語を教え,それをどのように行為化させるとよいかを教え,子供に何度も行為化させることが国語科では必要である。
野口先生は更に「安定的に」と仰る。目指すところはそこだろう。言語を教え,それを安定的に行為化させることが国語科の使命である。それを国語科の余った時間や他の教科で技術として使わせる。こうして国語科の責任を果たす。今の国語科は言葉を教えなければ技術も保障しない。だから這い回る国語科と言われる。(誰も言っていなければ私が言う。)
国語科の授業内容は言語である。授業方法は言語を運用する場としての言語活動である。子供にとって必要な言語活動を楽しく運用させる。今の国語科では必要な言語活動すら扱っていない。例えば小学校学習指導要領にはインタビューすら書かれていない。
難波先生のラウンドテーブルのお蔭で私の立場を鮮明にすることができた。しかしかなり形式主義的人間だと思われたことだろう。これまでの内容と形式という二項対立がよくない。形式と呼ばれているものこそ国語科の授業内容である。例えば段落という形式を指導するために理科的な説明文を使う。そこで話題が内容であり,文章構成が形式だという話になる。しかしそうではない。話題は文章の話題である。国語の授業での話題は段落という言語である。段落という言語を教える。そして段落の使い方を教える。更に段落を安定的に行為化させる。これが国語科の授業方法である。異論がたくさんあるだろうが,これが私の考えだと今回改めて気づくことができた。
今後の研究課題がはっきりした。人との出合いによって学ぶ価値の大きさを学んだ。有難いことである。次回はどこで開催されるかわからないが,出席して自説を主張していこう。出張旅費が出ないのが苦しいが。